2022.06

あれから何年経ったか
うちには今5歳になる娘がいて、毎日幸せに暮らしている

昨日保育園の懇談会があり(コロナ渦により2年ぶり)その締めに「子育てで悩んでいることはありませんか?」という先生からの問いかけがあり
仲のいいママ友さんも質問していたし、私も勇気を振り絞って
多くのママさんに聞いてみたかった質問を投げかけてみた。

“むすめはあまりやんちゃな方ではないので、あまり叱ること自体が多くはないのですが、
どうしてもやってほしくないことをしてしまった時は叱ります。ただ、余裕がない時に”雑に”叱ってしまうと
娘に伝わるのか、娘は泣き出してしまい、結果私の心が折れてしまい”強く怒ってごめん””泣かせてしまってごめん”と謝ってしまう。
でも、いけないことをしたことは事実なんだから、私が謝るのは間違っていますよね?
皆さんそういう時、どうやって乗り越えていますか?”



そしたら 一瞬 確実に空気が固まった。
私はまったくトンチンカンで、なぜ空気が固まったのかさっぱりわからず混乱していたら
一呼吸おいて隣に座っていた人の好さそうな(目じりが下がってる^^)ママさんが
「うちなんて 朝から晩まで泣いてばかりだから、泣かせないように」なんて考えたこともなかった」
と笑ってくれて
それに応じるように別の方が
「うちも我が強いから、泣き出したくらいで折れてたら何も進まない。だから泣いてもわめいても絶対折れません」
と応じてくださった。

皆さんが言っている意味は分かるんだけど
私は、どうしても誰かから答え、もしくはヒントが欲しかったので食い下がった
「あれがやだ、これがやりたい! ではなくて”もうしないからそんな風に起こらないで”と泣くんです。
そして娘が泣く時は 確かに私に余裕がないかった時だけなんです」
と補足すると
今度はいよいよそこにいる30人あまりが全員黙りこくってしまい
そこまで来てようやく私は自分がトンチンカンなことを言っていることに気づいた

先生がこまったように
「お気持ちはわかりますが、”泣けば許される”となってしまわないようにしないとですよね」
と応じてくださり
いや、そうじゃない、そういう意味ではなくて、、、という言葉を飲み込んで
「そうですよね、もうすぐ小学生だし、親として毅然とふるまいたいと思います。」
と答えておしまいにした。

そしたらその後園の駐車場で
名も知らないママさんに声をかけられ
「先ほどの質問、すごく心に響きました。私、子どもに”泣かせてごめんね”っていう言葉をかけるなんて
考えたこともなかったんです。でもそれってとても大事なことだって思ったんです。
とてもいい向き合い方だと思います。あなたは間違っていないです。そのままの子育てをしてください。私も見習います」
と言っていただいた

そこで少しほっとしたんだけど
その後三回目のコロナワクチンを接種したため
休息のため久々に家事育児から解放され施術室に引きこもり、一人になったらどんどん不安になってきてしまった

私はやはり”普通の母親”ではないのかもしれない
過保護なところがある自覚はある。
必要以上に”泣かさないように”気を使い、求められてもいないのにハグしすぎている自覚もある。
それがあおいにとってもし良くないことだとしたら、、
その不安があったからみんなに聞いてみたかったのだ。

そして勇気を振り絞った結果
“やはり私は普通の母親ではなかった”という回答が、あの”キョトン”を体現したような、固まった空気に確実に表現されていた。

そして私は悩んだ
私はどれくらい普通じゃないのだろう
今日は30分の1だった。
だけど本当はもっともっと特異な母親なのではないか?
100分の1だったら、あおいにちゃんと友達はできるのだろうか
1000分の1だったら、あおいは楽しんで学校に通えるだろうか
10000分の1だったら、、、、
なぜ、どこでこんなにおかしくなってしまったのか?

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私は気づいていた。もっとずっと前から
あおいが生まれったとき、私は全身麻酔で寝ていてあの子が自分のおなかから出てくるのを見ていない。
目覚めたときあおいは別室に連れていかれており、私は手術台でぼんやりと”元気な女の子ですよ!”と言われ
「何が?」と思った。
二時間ほど後 全身麻酔が抜けて頭がはっきりしたころ、病室にあおいが連れてこられて
小さなほっそりした、かわいらしい女の子を見て、一番に感じたのが
“こんなにかわいらしい子が私の産んだ子どもであるはずがない”
と思った。

きっと取り違えたのだ。
いや、きっと、また死産だったのだ。

でも二回目はさすがにかわいそうだから、と誰かが気を利かせて
かわいい女の子を私にあてがってくれたのだ。と。

”ではきっとこの子は借り物で
そのうち本当の母親が迎えに来るに違いない。
それはいつか、あと何年この子とわたしは一緒に居られるのか”

バカみたいな妄想だと思う人はどうぞ笑ってくれていい。
それでも、私は退院するまでの7日間、片時もあおいから離れたくなくて
検診のために新生児室に引き離されるたびに、傷の痛みに耐えながら新生児室の窓からかじりついていた。

おなかが空っぽのまま、病室にひとり居ると、死産のあの記憶がよみがえるから。

本当に生きて産まれたのか?この子は本当に私が産んだ子なのか?
私はひとり、その疑問を抱えながら
いつか来るかもしれないあおいの”本当のお母さん(笑)”の陰におびえながらずっとずっと子育てしてきた。
あおいとの愛しい愛しい幸せな日々が続くにつれ
“これは幻なんじゃないか” ”今もまだ死産のあとのあの病室に居て、夢を見ているだけなんじゃないか”
いつかきっと覚めるに違いない。覚めたくない。どうか覚めないで
そう強く強く願いながら子育てしてきた。
もう五年だ


保育園の懇親会の質問で、場の空気が凍ったとき
私が自分が抱えている心の闇の深さを知った。
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あおいが産まれまでの9年間に、私は三回の流産と一回の死産を経験した。
そして心が折れて、生きる希望を失って
自暴自棄になっているとき、パラグライダーに出会った。

最初は”死んでもいい”と思って始めた。
でも空を飛ぶと、全身の細胞が喜んでいるような感覚を感じるようになった。
あぁ、私はいまこの世界に身を置いていて、この世界のすべてを感じながら生きている。と

結婚前までは子どもを預かる施設で働いていた。
子どもの相手をするのは昔から好きだった
“子ども好き”ではなくて、相手が子どもなら気張らずにいられるから居心地がよかったのだ。
だけどその職場は住み込みだったので、結婚と同時に辞めざるを得ず
退職して結婚した後、仕事をどうするかとても悩んだ。

仕事はしていたい。働くことは楽しかったから
だけど当時29歳。就職はできるだろうけど、就職してすぐ妊娠したとしたら
私はチキンなので、もし産休や育休がとれる職場だったとしても、取らずに辞めてしまうだろう。
だとしたら、子どもを育てながら続けられる仕事って何がある?

当時の浅はかな私の頭に浮かんだのが”自宅で整体”という結論だった。

学校へ通い、開業したまではよかった。
私はすぐに妊娠するだろうから、すぐ閉店して育休を経て落ち着いたら再開するつもりでいた
そしてやはりすぐ妊娠した。
が、その後すぐ流産した。

問題は”子どもを育てながらできる仕事”として始めた事業がそこそこうまくいってしまい
年収が上がる一方。
なのに子どもは一向に産まれるめどが立たず
しまいには”何のために働くのか”わからなくなってしまう始末。
子どもがいれば”教育資金のために”とか言えるのに 当時の私たちには働く目的すらなかった。

そうしてはまったのがパラグライダーだった。
パラとの出会いは実に、言葉通りの意味で”私の人生を救った”
私に生きる目標を与え、事業を続ける原動力となり、続けるほどに周囲の人から求められる存在となっている実感が得られるようになった。
パラと出会っていなかったら、私はきっと命はあったとしても”生きて”はいなかったし
多分、あおいとも出会いえていなかった。

あおいを妊娠したのは妊活をあきらめて二年目の春、パラを初めて3年目だったか
私はずっと9年来懇意にしている産婦人科の先生に相談した
「過去4回失敗して、しかも一度は七か月の死産だった。私は自分が妊娠していると自覚したまま10か月耐えられる自信がない。だから”妊娠していない”体で暮らしたいとおもう。幸い酒もたばこもしないので、普通に仕事してパラもオケも続けたい」と
そしたら先生が「いいね。でもおなかが出てきたら飛ぶのはNGね」と言ってくださったので
妊娠五か月まで飛んでいた。
もしまた死産になったとしても、おなかの中で生きている今だけでも知ってほしかった
”世界はこんなに輝いているんだ”と。

それがよかったかどうかは知らない。でもあおいは生まれた。

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子どもができない間私はお客さんとしてくる妊婦さんや子連れの方
お友達や同級生が妊娠、出産したと聞いても一度も嫉妬することがなかった。
ねたんだり、”なぜ自分だけ”と思うのが大嫌いだったから。

仁を死産で失った時私は
「あの子はきっと、産まれていたらひどい死に方をする運命だったのだ。それが起こると私や旦那が生きていけなくなるような。
だから私たちを傷つけまいとして、生まれる前に死んだのだ。
赤ちゃんの温かさ、柔らかさ、愛おしさを知ってから失うのはきっと死産より何倍も苦しかったに違いない」
と思うことで、悲しみを処理していた。
(そしてこの解釈は今でも変わっていない)

どちらかというと2人目不妊時の不妊治療の間の方が、嫉妬心に苦しめられた。

親子三人で公園などに行くたびに「あの家族は二人いる。あそこは三人、あの家族はもしかしたら一人っ子。。?」と
無意識に同族を探す自分がいて、それに気づくたびに自分自身に嫌悪していた。


でも違った。
私は、仁との別れをすんなり受け入れてなんていなかった。
まったく、これっぽっちも悲しみを乗り越えられていなくて
ただ、蓋をしただけだった。
生きていけるように。乗り越えられるように。あおいと、出会うために。

懇談会の一件で気づいた違和感
私はいったい何分の1の特異な母親なのか?という問い

その答えに行きついた。
妊娠初期に流産する確率が20% 私はそれが三回
妊娠7か月で死産となる確率は1%
すべてかけると0.008%ですってw
そういうことらしい。



そしてようやく得心がいった。
それならば仕方がないではないか。私は特異な母親なんだ。

9年苦しんだものから5年で解放されるわけがない。
ただ、仁の死産からもうすぐ10年。
だから私はようやくあの負った自分の心の傷と向き合えるようになったらしい

あの時きつく閉じた蓋はまだこのPCのフォルダ構造の深いところにしまってある。
仁の写真と妊娠時のエコーだ。
フォルダ名は”藁をも”

これが答えだった
私は悲しかったんだ。苦しかったんだ。死にたいほどに
今なら向き合える
10年前の私、本当によくやったよ
あんたが乗り越えてくれたおかげで、私はあおいと一緒に居られるんだ。
本当に本当にありがとう。おつかれさま